1980年代。
中国残留孤児の訪日調査がスタートしました。
数十年ぶりに、肉親との対面を果たした孤児たちの明るい表情は、わたしたちにとって、記憶に残ったものに違いないでしょう。 |
 |
 |
あれから20年以上が経ちました。
帰国を果たした彼らは厳しい現実にされされていました。
働くこともままならず、生活保護に頼る暮らし。
国民年金が極端に少なく、月に7000円の孤児もいました。せっかく日本に帰っても、政府は冷たかったのです。 |
去年9月、東海地区の残留孤児141人が集団で国を訴えました。政府からの謝罪と、老後の生活保障を求めています。
会見の中で、原告の1人である孤児は
「中国では、日本の鬼の子と言われ、祖国日本に来たら、中国人と言われ、みんな、辛い人生を送ってきました。」
と涙ながらに語りました。 |
 |
 |
ここで、「残留孤児」をおさらいしましょう。
戦時中、国は開拓移民27万人を、中国北部の満州に送り、次々と日本人の村を作っていきました。しかし、1945年8月、ソ連軍が参戦の時から終戦の時(15日)を経て、開拓団は一転して、どん底に突き落とされました。
ソ連軍や中国人の襲撃が相次ぎ、略奪と虐殺が繰り返されました。必死に逃げ惑ううち、親兄弟と生き別れたのが残留孤児です。彼らは、その後中国人の家で育てられました。 |
日本と中国は断絶の関係にありましたが、国交が1972年、当時の田中角栄総理のもと、正常化されました。
この時、残留孤児にも「帰国への光」が見えたかに思えました。
しかし、なかなか政府は動かず、9年かかってようやく調査が始まったのです。 |
行政側は、残留孤児の実態を把握しているのでしょうか?
県健康福祉部に話を伺ったところ、
「厚生労働省で中国帰国者の生活実態調査を実施しているので、特に、あえて県で調査を実施する必要もない」
と答えています。 |
 |
 |
8年前、静岡市に永住帰国した宮田睦子さんは、市営団地に中国人の夫と2人で暮らしています。
月11万円の生活保護だけが頼りです。お金の入る直前には、食料も底をつくといいます。2人は、体が悪く働けないため、賃金の収入がありません。
しかし、これはまれなケースではなく、全国の残留孤児のうち、既に7割が生活保護を受けています。 |
実は、帰国した人を支援する法律があります。
帰国した残留孤児に対して、国では、3年間の自立支援を行っています。しかし、高齢化が進み、自立できない孤児が増え、新たな支援策が必要とされています。
具体的な策について、県では「国の施策の中で、実施されるべき」と話します。 |
 |
 |
提訴から3ヶ月後の去年12月18日。いよいよ初弁論の日がやってきました。
名古屋地方裁判所で行われた、第1回口頭弁論で、2人の原告代表が自分の境遇を精一杯訴えました。傍聴席では涙を拭う姿がありました。そして、陳述が終わった瞬間、静粛な法廷に拍手が響きました。
しかし、この日国側は、全面的に争う姿勢を示しました。
その上で、現在事実関係を調査中だとして本格的な話し合いは次回以降に持ち越されました。 |
年が明けて、名古屋の弁護士が静岡を訪れました。
孤児の生い立ちや、生活状況を調査して、裁判の陳述書を作るためです。こうした地道な対面調査は、原告141人全員に実施されます。
高齢化した残留孤児たちの不安。その多くは、「年金問題」です。出る年金は、本当にわずか。
生活保護に頼らなければ生きていくことはできません。 |
 |
 |
さらに、孤児の中でも年金支給額に差があるのです。
その原因は、日本国籍の取得によって決められているからです。今回の場合、窓口は国の法務局。
自治体レベルでは話を受け付けてはくれません。 |
帰国した孤児たちが直面した、厳しい現実。
その原因を作った政府に対する憤りが、今「国家賠償訴訟」という形になったのです。
「残留孤児を生み出したことについて国に責任があるんだということを明確に意識した上での施策をして欲しい」と弁護士は語ります。
孤児も、「政府は私たちと話をしてほしい。」「同年代の人と同じような日本人の生活をすれば、それだけでもういいと思っている。」と話します。 |
 |